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	<title>岩に花</title>
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	<description>美意識とウィットを求めて</description>
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		<title>京極夏彦の「百鬼夜行シリーズ」</title>
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		<pubDate>Sun, 17 Jan 2010 16:24:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Wabisabi</dc:creator>
				<category><![CDATA[本]]></category>
		<category><![CDATA[京極夏彦]]></category>
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		<description><![CDATA[京極夏彦の百鬼夜行シリーズを読破した。そして大変感動した。 舞台としての戦後日本 このシリーズは第２次世界大戦後の間もない東京が舞台である。私から言わせれば、こういう暗い探偵小説シリーズにはこれ以上相応しい舞台はない。 男たちは徴兵に駆り出され、残された女たちは逃げ惑っていた戦火の時代は７、８年にも及ぶ長い年月を無に帰してしまった。とは言え、何年経っても時代がどう移り変わっても、過去は決して消えることはないのである。 過去はヨミガエル。 このシリーズの時間枠は実に何百年も何千年も越える。遠い古代の出来事であれ、戦争前後の出来事であれ、または最近の出来事であれ、そのどれもが欠いてはならない断片となり、物語を構成している。 加えて、読み手の視線から見れば、戦後の日本は実に興味深い。何しろ激動の乱世だった。おまけに、（架空ではあるが）怪しい新興宗教までも出てきてしまう。まさに「百鬼夜行」の時代だったのだ。 登場人物がはそれぞれ未来のことに関していろいろ質問した（特に科学技術に関して）。当時、まだ答えが出るには早かったが、あれから６０年経った今、再びその質問の意味を考えてみると、私たちはどんな答えを出すのだろうか。 とにかく過去からの秘密や怨みが詰まった時代が１９５０年代なのだ。 「命」と「精神」 本作には、「命」と「精神」という二つのテーマがある。 実は、両方ともある登場人物たちの戦時研究テーマでもある。 本編中にこんな話がある。ある類稀な境遇で育ったキャラはずっと、「生きている」とはこの世に物理的に存在することであり、「死ぬ」とはこの世から物理的に消えている、と思い込んできいた。つまり、彼にとって、死体はまだ「生きている」ものであり、死体がこの世から消滅して初めて「死ぬ」ということなのだ。 よく考えてみれば、彼にも一理あり。常識から逸脱しているが… 「幸せになることのは簡単なことなんだ。人を辞めてしまえばいいのさ。」 と、陰陽師こと主人公の中禅寺秋彦（通称：京極堂）が、第二巻の「魍魎の匣」の最後にそう言った。 人の間と書いて「人間」。私たちは言うなれば人々の間で生きているのだ。現世で他者と生きるということは、何かしらの共有出来る真実なり信念が必要になる。歴史を振り返ってみてもそうだが、それを持てない人間たちに「共存」の二文字はなかった。 現代人には以下の共通真実がある。 人間は老いて死ぬこと 時間は過ぎてゆくこと 過去にやってしまったことは取り返しがつかないこと 人は変わっていくこと 人間である限り、幸せにはなれないこと どれも喜ぶべきことではない。 もしそれが嫌だったら、勝手に「命」だの「死」だの、それらの概念を自分流で定義すればいい。しかしそうするとならず者と化し、もう「こちら側」の人間ではなくなり、「あちら側」の人間になってしまう。とは言え、「あちら側」の方ははるかに魅力的ではないだろうか？ 不老不死であること 時間を止めることが出来ること 過去にやってしまったことを取り返せること 人は変わらないこと アナタもシアワセになれること その昔、イカレていた人は悪魔に憑りつかれた人と言われていた。今はそういう人たちを精神病患者という。 話が変わるが、小津安二郎の映画における登場人物、幸福などに対する控え目な態度を見ると、今時の人たちの幸せに対する執着の方がオカシイのではないか、とさえ思ってしまう。 いつまでも若く素敵でいる・・・ いつもこの世の楽しみをたっぶぷり味わう・・・ 過去を悔やんだり、他人に気を遣わなくていい その方がよっぽどオカシイではないか。 憑物落としについて 「Memories, Dreams, Reflections」という著作で、 精神科医のユングは下記のように述べた。 治療を求めて精神科医を訪ねてくる患者には、たいてい誰にも打ち明けられないような秘密を抱えている。その話を聞いていない限り、本格の治療が始まらないと私は思う。その話こそが患者の致命傷でもあるから。 そんな身の上話をつらつらと語り出してスッキリ浄化した患者なんてテレビや映画でたくさん見たけれど、これはすべてただの自己満足なんじゃないかと批判の声も聞く。それは、わかるような気がする。 それに比べると、中禅寺の使っている憑物落としという療法は、現代の精神科の治療方とは全く正反対である。 何しろ、中禅寺は患者に話をさせるより、話を聞かせるのだ。しかも、その内容は、患者の身の上話であることは確かだが、患者本人さえ知らなかったもう一つの「裏の話」である。 中禅寺は常に患者本人さえ知らなかった情報を持っている。彼の情報源は、自分自身の経験を始め、その膨大な閲歴、両方を駆使して推測したのだ。 患者たちは割りと自分からあまり話はしない。（中禅寺が話を促すこともあるが） その「裏の話」だが、始めから何千年も超え、とうに死んでいた人々の行いによって立ち上がり、間接的にながら患者の自身に何か決定的な影響を与えるものである。 結局、その患者達は「こちら側」で生きるか、それとも「あちら側」に渡るか、それを決断することになる。 これは私の感想だが、患者にはどんな「致命傷」に傷つかれたとせよ、人類の長い歴史もしくは宇宙の長い歴史の視野から見れば、きっとちっぼけに見えるだろう。もしや、それこそが中禅寺の治療方ではないか、と私は思う。運命という永い時空の川の中で、私たちは過去・現在の無関係な他人から幸か不幸かの種を植え付けられ、そしてまだ知らない現在・未来の他人に幸か不幸かの種を植え付けている―つまり、結局の所私たちの人生は私たちだけで生きているというわけではなく、他者から生を受けている、もしくは他者の人生の歯車になりえているのだ…そう思うことで心が癒されるのではないか。 次は、ネタバレを含んだ記事を書こうと思う。 京極先生、こんなに素晴らしい作品を、ありがとうございました。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>京極夏彦の百鬼夜行シリーズを読破した。そして大変感動した。<strong> </strong></p>
<p><strong>舞台としての戦後日本</strong></p>
<p>このシリーズは第２次世界大戦後の間もない東京が舞台である。私から言わせれば、こういう暗い探偵小説シリーズにはこれ以上相応しい舞台はない。 男たちは徴兵に駆り出され、残された女たちは逃げ惑っていた戦火の時代は７、８年にも及ぶ長い年月を無に帰してしまった。とは言え、何年経っても時代がどう移り変わっても、過去は決して消えることはないのである。</p>
<p>過去はヨミガエル。</p>
<p>このシリーズの時間枠は実に何百年も何千年も越える。遠い古代の出来事であれ、戦争前後の出来事であれ、または最近の出来事であれ、そのどれもが欠いてはならない断片となり、物語を構成している。</p>
<p>加えて、読み手の視線から見れば、戦後の日本は実に興味深い。何しろ激動の乱世だった。おまけに、（架空ではあるが）怪しい新興宗教までも出てきてしまう。まさに「百鬼夜行」の時代だったのだ。</p>
<p>登場人物がはそれぞれ未来のことに関していろいろ質問した（特に科学技術に関して）。当時、まだ答えが出るには早かったが、あれから６０年経った今、再びその質問の意味を考えてみると、私たちはどんな答えを出すのだろうか。</p>
<p><span style="text-decoration: line-through;"> </span></p>
<p>とにかく過去からの秘密や怨みが詰まった時代が１９５０年代なのだ。</p>
<p><span id="more-15"></span><strong>「命」と「精神」</strong></p>
<p>本作には、「命」と「精神」という二つのテーマがある。</p>
<p>実は、両方ともある登場人物たちの戦時研究テーマでもある。</p>
<p>本編中にこんな話がある。ある類稀な境遇で育ったキャラはずっと、「生きている」とはこの世に物理的に存在することであり、「死ぬ」とはこの世から物理的に消えている、と思い込んで<span style="text-decoration: line-through;">き</span>いた。つまり、彼にとって、死体はまだ「生きている」ものであり、死体がこの世から消滅して初めて「死ぬ」ということなのだ。</p>
<p>よく考えてみれば、彼にも一理あり。常識から逸脱しているが…</p>
<p><strong>「幸せになることのは簡単なことなんだ。人を辞めてしまえばいいのさ。</strong><strong>」</strong></p>
<p>と、陰陽師こと主人公の中禅寺秋彦（通称：京極堂）が、第二巻の「魍魎の匣」の最後にそう言った。</p>
<p>人の間と書いて「人間」。私たちは言うなれば人々の間で生きているのだ。現世で他者と生きるということは、何かしらの共有出来る真実なり信念が必要になる。歴史を振り返ってみてもそうだが、それを持てない人間たちに「共存」の二文字はなかった。</p>
<p>現代人には以下の共通真実がある。</p>
<ul>
<li>人間は老いて死ぬこと</li>
<li>時間は過ぎてゆくこと</li>
<li>過去にやってしまったことは取り返しがつかないこと</li>
<li>人は変わっていくこと</li>
<li>人間である限り、幸せにはなれないこと</li>
</ul>
<p>どれも喜ぶべきことではない。</p>
<p>もしそれが嫌だったら、勝手に「命」だの「死」だの、それらの概念を自分流で定義すればいい。しかしそうするとならず者と化し、もう「こちら側」の人間ではなくなり、「あちら側」の人間になってしまう。とは言え、「あちら側」の方ははるかに魅力的ではないだろうか？</p>
<ul>
<li>不老不死であること</li>
<li>時間を止めることが出来ること</li>
<li>過去にやってしまったことを取り返せること</li>
<li>人は変わらないこと</li>
<li>アナタもシアワセになれること</li>
</ul>
<p>その昔、イカレていた人は悪魔に憑りつかれた人と言われていた。今はそういう人たちを精神病患者という。</p>
<p>話が変わるが、小津安二郎の映画における登場人物、幸福などに対する控え目な態度を見ると、今時の人たちの幸せに対する執着の方がオカシイのではないか、とさえ思ってしまう。</p>
<p><em>いつまでも若く素敵でいる・・・</em></p>
<p><em>いつもこの世の楽しみをたっ<span style="text-decoration: line-through;">ぶ</span>ぷり味わう・・・</em></p>
<p><em>過去を悔やんだり、他人に気を遣わなくていい</em></p>
<p>その方がよっぽどオカシイではないか。</p>
<p><strong>憑物落としについて</strong></p>
<p>「Memories, Dreams, Reflections」という著作で、 精神科医のユングは下記のように述べた。</p>
<blockquote><p>治療を求めて精神科医を訪ねてくる患者には、たいてい誰にも打ち明けられないような秘密を抱えている。その話を聞いていない限り、本格の治療が始まらないと私は思う。その話こそが患者の致命傷でもあるから。</p></blockquote>
<p>そんな身の上話をつらつらと語り出してスッキリ浄化した患者なんてテレビや映画でたくさん見たけれど、これはすべてただの自己満足なんじゃないかと批判の声も聞く。それは、わかるような気がする。</p>
<p>それに比べると、中禅寺の使っている憑物落としという療法は、現代の精神科の治療方とは全く正反対である。</p>
<p>何しろ、中禅寺は患者に話をさせるより、話を聞かせるのだ。しかも、その内容は、患者の身の上話であることは確かだが、患者本人さえ知らなかったもう一つの「裏の話」である。</p>
<p>中禅寺は常に患者本人さえ知らなかった情報を持っている。彼の情報源は、自分自身の経験を始め、その膨大な閲歴、両方を駆使して推測したのだ。</p>
<p>患者たちは割りと自分からあまり話はしない。（中禅寺が話を促すこともあるが）</p>
<p>その「裏の話」だが、始めから何千年も超え、とうに死んでいた人々の行いによって立ち上がり、間接的にながら患者の自身に何か決定的な影響を与えるものである。</p>
<p>結局、その患者達は「こちら側」で生きるか、それとも「あちら側」に渡るか、それを決断することになる。</p>
<p>これは私の感想だが、患者にはどんな「致命傷」に傷つかれたとせよ、人類の長い歴史もしくは宇宙の長い歴史の視野から見れば、きっとちっぼけに見えるだろう。もしや、それこそが中禅寺の治療方ではないか、と私は思う。運命という永い時空の川の中で、私たちは過去・現在の無関係な他人から幸か不幸かの種を植え付けられ、そしてまだ知らない現在・未来の他人に幸か不幸かの種を植え付けている―つまり、結局の所私たちの人生は私たちだけで生きているというわけではなく、他者から生を受けている、もしくは他者の人生の歯車になりえているのだ…そう思うことで心が癒されるのではないか。</p>
<p>次は、ネタバレを含んだ記事を書こうと思う。</p>
<p>京極先生、こんなに素晴らしい作品を、ありがとうございました。</p>
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		<title>「破壊の美」と「滄桑美」と</title>
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		<pubDate>Mon, 11 Jan 2010 12:59:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Wabisabi</dc:creator>
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		<description><![CDATA[日本人は舞い落ちる花を美しく思い、中国人は散った花こそを美しく思う。 と、私は考えた。つまり、日本人は「破壊の過程」の中に美意識を見出し、中国人は「破壊の跡」の中にそれを見出す、という傾向があるように見えるわけである。この二つの美意識には、それぞれ呼び名があり、前者は日本語で「破壊の美」と呼ばれ、後者は中国語で「滄桑美」と言う。 破壊の美について 破壊の美には様々な形がある。ここでいう「破壊」とは、単に「モノを壊す」ということに限らず、「命を最後まで燃やす」ということまで意味する。例としてあげると、舞い落ちる桜の花びらや、特攻隊の殉死や、三島由紀夫の作品及びその人生やなどである。どれも「破壊の美」を表しているのではないか。また、そうした破壊の美には「潔い」という、いかにも「和」な美意識がある。 和英辞書を引くと、「潔い」という言葉はよく、「graceful」や「manly」、又は「noble」や「courageous」、さらに「readily」や「with good grace」などと訳が出てくる。その辺りについても自分なりに考えてみたが、下記の解釈が最も適切ではないかと、私は思う。 「潔い」とは何か この世に存在するものは、たとえどんなに美しくても完璧であっても、最後には必ず朽ちてしまうものである。それが分かっているからなのか、そのような老化の兆しが見え隠れする、もしくはする前（まだ美しさがピークの状態で）に自分からその命を惜しいとも思わずに断ってしまう。そのような覚悟はある意味では狂気であり、崩壊や死の前兆としてしばし現れるようだ。 先述にも例としてあげたが、三島の切腹事件はまさにそうした「潔さの見本」であろう 。 ちなみに、清水玲子の漫画でも、クライマックスによく「潔い」という姿勢が描かれている。それは彼女得意とする描写なのかもしれない。 「潔い」の他にも、日本では文学作品・映画・アニメなどあらゆる分野で見られる、暴力的だが魅力的で、かつ美を指し示す言葉がある――それは「暴力美学」と言う。 北野武•や三池崇史の映画や、漫画•アニメの「聖闘士星矢」もしくは「シグルイ」など、どれも「暴力美学」をめぐる代表作。特に「聖闘士星矢」では、少年マンガの中では鼻祖的な存在で、今もその美意識が多くの作品に影響を与えているように思える。例えばキャラクターたちの繰り出す必殺技だ。それらの必殺技には必ず何かしらの名前がつけられていて、しかも華やかなパフォーマンスも見せてくれる。以降の少年マンガがほぼそうした暗黙の了解に従うことになったと言っても過言ではない。 暴力美学は、決して日本ならではの概念ではなく、海外でもクエンティン・タランティーノなどの作品に、そのような美意識が見られる。 滄桑美について 先述にも触れたが、中国人は散ってしまった花こそを美しく思う。 中国人は、かつて華やかだった物事の美しさに対して、滄桑美という言葉を使う。滄桑とは、「滄海桑田」の略語で、その語源とある古き伝説に基づく。昔、麻姑という名の仙人が不老不死の命を得て、東海（現在の太平洋）が桑畑になったことを三回も目にしたことがあったと云われる（「神仙傳」より出典）。つまり、滄桑とは「滄海変じて桑田と為る」こと、あるいは時代の移り変わりのことである。滄桑美とは世代交代と共に失われた、儚くも華やかだった物事の美しさを指し示す言葉なのである。 中国文学の名作【紅樓夢】では、ヒロインの黛玉が散った花弁を埋めるために墓をつくる、というシーンがあり、このシーンは中国人の美意識にとって極めて魅力的だったと言われている。なぜなら、このシーンは美しき才嬢である黛玉が美しき花弁を埋めながら美しき詩を詠むという全体的に美を散りばめた場面であり、それと同時にこの壮大なる物語の展開を考えれば、彼女の行動は、どれも世の儚さもしくは彼女自身の命の儚さを象徴していると思われる。彼女は、才嬢達の中で最も美意識に秀でており、散った花弁を埋めるために作られた墓は、どこか美しく映っているようである。 昔の中国の詩人たちは、今の物事の美しさに共感しなかったようだ、と私は彼らの詩を読むとつくづく感じた。むしろ彼らが好むのは一昔前の物事の美しさの方が数多い。 用例がにわかに新しくなるが、映画監督である王家衛は、惜しくも失われた過去の人々・物事を語ることこそ、生涯の事業としたようだ。 以上色々述べたが、ちょっと話の腰を折り、別件について話したい。最近、「王妃の紋章」をはじめとする多額の予算が投じられた中国映画が、あまり中国国内で好まれていないらしい。その理由の一つには、あんな代物は外国人のために用意された釣りだと言われている。言い換えれば、外国人を楽しませることは中国人のそれと何処か違うということ。ならば中国人を楽しませることとは何か。その辺りを私も自分なりにあれこれ考えたが、中国人は「滄桑美」のある映画の方が好きだ、という結論に行き着いた。つまり、現在進行中の物語より、とうに終わってしまった物語を当事者たちの目線から語る方が、中国人にとっては魅力的なのだ。中国人は、どこかこういう懐旧・郷愁的なところに美意識を感じるのだろう。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>日本人は舞い落ちる花を美しく思い、中国人は散った花こそを美しく思う。</p>
<p>と、私は考えた。つまり、日本人は「破壊の過程」の中に美意識を見出し、中国人は「破壊の跡」の中にそれを見出す、という傾向があるように見えるわけである。この二つの美意識には、それぞれ呼び名があり、前者は日本語で「破壊の美」と呼ばれ、後者は中国語で「滄桑美」と言う。</p>
<p><strong>破壊の美について</strong></p>
<p>破壊の美には様々な形がある。ここでいう「破壊」とは、単に「モノを壊す」ということに限らず、「命を最後まで燃やす」ということまで意味する。例としてあげると、舞い落ちる桜の花びらや、特攻隊の殉死や、三島由紀夫の作品及びその人生やなどである。どれも「破壊の美」を表しているのではないか。また、そうした破壊の美には「潔い」という、いかにも「和」な美意識がある。</p>
<p>和英辞書を引くと、「潔い」という言葉はよく、「graceful」や「manly」、又は「noble」や「courageous」、さらに「readily」や「with good grace」などと訳が出てくる。その辺りについても自分なりに考えてみたが、下記の解釈が最も適切ではないかと、私は思う。</p>
<blockquote><p>「潔い」とは何か<br />
この世に存在するものは、たとえどんなに美しくても完璧であっても、最後には必ず朽ちてしまうものである。それが分かっているからなのか、そのような老化の兆しが見え隠れする、もしくはする前（まだ美しさがピークの状態で）に自分からその命を惜しいとも思わずに断ってしまう。そのような覚悟はある意味では狂気であり、崩壊や死の前兆としてしばし現れるようだ。</p></blockquote>
<p>先述にも例としてあげたが、三島の切腹事件はまさにそうした「潔さの見本」であろう 。</p>
<p>ちなみに、清水玲子の漫画でも、クライマックスによく「潔い」という姿勢が描かれている。それは彼女得意とする描写なのかもしれない。</p>
<p>「潔い」の他にも、日本では文学作品・映画・アニメなどあらゆる分野で見られる、暴力的だが魅力的で、かつ美を指し示す言葉がある――それは「暴力美学」と言う。</p>
<p><span id="more-11"></span>北野武•や三池崇史の映画や、漫画•アニメの「聖闘士星矢」もしくは「シグルイ」など、どれも「暴力美学」をめぐる代表作。特に「聖闘士星矢」では、少年マンガの中では鼻祖的な存在で、今もその美意識が多くの作品に影響を与えているように思える。例えばキャラクターたちの繰り出す必殺技だ。それらの必殺技には必ず何かしらの名前がつけられていて、しかも華やかなパフォーマンスも見せてくれる。以降の少年マンガがほぼそうした暗黙の了解に従うことになったと言っても過言ではない。</p>
<p>暴力美学は、決して日本ならではの概念ではなく、海外でもクエンティン・タランティーノなどの作品に、そのような美意識が見られる。</p>
<p><strong>滄桑美について</strong></p>
<p>先述にも触れたが、中国人は散ってしまった花こそを美しく思う。</p>
<p>中国人は、かつて華やかだった物事の美しさに対して、滄桑美という言葉を使う。滄桑とは、「滄海桑田」の略語で、その語源とある古き伝説に基づく。昔、麻姑という名の仙人が不老不死の命を得て、東海（現在の太平洋）が桑畑になったことを三回も目にしたことがあったと云われる（「神仙傳」より出典）。つまり、滄桑とは「滄海変じて桑田と為る」こと、あるいは時代の移り変わりのことである。滄桑美とは世代交代と共に失われた、儚くも華やかだった物事の美しさを指し示す言葉なのである。</p>
<p>中国文学の名作【紅樓夢】では、ヒロインの黛玉が散った花弁を埋めるために墓をつくる、というシーンがあり、このシーンは中国人の美意識にとって極めて魅力的だったと言われている。なぜなら、このシーンは美しき才嬢である黛玉が美しき花弁を埋めながら美しき詩を詠むという全体的に美を散りばめた場面であり、それと同時にこの壮大なる物語の展開を考えれば、彼女の行動は、どれも世の儚さもしくは彼女自身の命の儚さを象徴していると思われる。彼女は、才嬢達の中で最も美意識に秀でており、散った花弁を埋めるために作られた墓は、どこか美しく映っているようである。</p>
<p>昔の中国の詩人たちは、今の物事の美しさに共感しなかったようだ、と私は彼らの詩を読むとつくづく感じた。むしろ彼らが好むのは一昔前の物事の美しさの方が数多い。</p>
<p>用例がにわかに新しくなるが、映画監督である王家衛は、惜しくも失われた過去の人々・物事を語ることこそ、生涯の事業としたようだ。</p>
<p>以上色々述べたが、ちょっと話の腰を折り、別件について話したい。最近、「王妃の紋章」をはじめとする多額の予算が投じられた中国映画が、あまり中国国内で好まれていないらしい。その理由の一つには、あんな代物は外国人のために用意された釣りだと言われている。言い換えれば、外国人を楽しませることは中国人のそれと何処か違うということ。ならば中国人を楽しませることとは何か。その辺りを私も自分なりにあれこれ考えたが、中国人は「滄桑美」のある映画の方が好きだ、という結論に行き着いた。つまり、現在進行中の物語より、とうに終わってしまった物語を当事者たちの目線から語る方が、中国人にとっては魅力的なのだ。中国人は、どこかこういう懐旧・郷愁的なところに美意識を感じるのだろう。</p>
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