January 18th, 2010 / Author: Wabisabi
京極夏彦の百鬼夜行シリーズを読破した。そして大変感動した。
舞台としての戦後日本
このシリーズは第2次世界大戦後の間もない東京が舞台である。私から言わせれば、こういう暗い探偵小説シリーズにはこれ以上相応しい舞台はない。 男たちは徴兵に駆り出され、残された女たちは逃げ惑っていた戦火の時代は7、8年にも及ぶ長い年月を無に帰してしまった。とは言え、何年経っても時代がどう移り変わっても、過去は決して消えることはないのである。
過去はヨミガエル。
このシリーズの時間枠は実に何百年も何千年も越える。遠い古代の出来事であれ、戦争前後の出来事であれ、または最近の出来事であれ、そのどれもが欠いてはならない断片となり、物語を構成している。
加えて、読み手の視線から見れば、戦後の日本は実に興味深い。何しろ激動の乱世だった。おまけに、(架空ではあるが)怪しい新興宗教までも出てきてしまう。まさに「百鬼夜行」の時代だったのだ。
登場人物がはそれぞれ未来のことに関していろいろ質問した(特に科学技術に関して)。当時、まだ答えが出るには早かったが、あれから60年経った今、再びその質問の意味を考えてみると、私たちはどんな答えを出すのだろうか。
とにかく過去からの秘密や怨みが詰まった時代が1950年代なのだ。
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January 11th, 2010 / Author: Wabisabi
日本人は舞い落ちる花を美しく思い、中国人は散った花こそを美しく思う。
と、私は考えた。つまり、日本人は「破壊の過程」の中に美意識を見出し、中国人は「破壊の跡」の中にそれを見出す、という傾向があるように見えるわけである。この二つの美意識には、それぞれ呼び名があり、前者は日本語で「破壊の美」と呼ばれ、後者は中国語で「滄桑美」と言う。
破壊の美について
破壊の美には様々な形がある。ここでいう「破壊」とは、単に「モノを壊す」ということに限らず、「命を最後まで燃やす」ということまで意味する。例としてあげると、舞い落ちる桜の花びらや、特攻隊の殉死や、三島由紀夫の作品及びその人生やなどである。どれも「破壊の美」を表しているのではないか。また、そうした破壊の美には「潔い」という、いかにも「和」な美意識がある。
和英辞書を引くと、「潔い」という言葉はよく、「graceful」や「manly」、又は「noble」や「courageous」、さらに「readily」や「with good grace」などと訳が出てくる。その辺りについても自分なりに考えてみたが、下記の解釈が最も適切ではないかと、私は思う。
「潔い」とは何か
この世に存在するものは、たとえどんなに美しくても完璧であっても、最後には必ず朽ちてしまうものである。それが分かっているからなのか、そのような老化の兆しが見え隠れする、もしくはする前(まだ美しさがピークの状態で)に自分からその命を惜しいとも思わずに断ってしまう。そのような覚悟はある意味では狂気であり、崩壊や死の前兆としてしばし現れるようだ。
先述にも例としてあげたが、三島の切腹事件はまさにそうした「潔さの見本」であろう 。
ちなみに、清水玲子の漫画でも、クライマックスによく「潔い」という姿勢が描かれている。それは彼女得意とする描写なのかもしれない。
「潔い」の他にも、日本では文学作品・映画・アニメなどあらゆる分野で見られる、暴力的だが魅力的で、かつ美を指し示す言葉がある――それは「暴力美学」と言う。
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